解説者のプロフィール

加藤諦三(かとう・たいぞう)
作家、社会心理学者。東京大学教養学部教養学科を卒業後、同大学院社会学研究科修士課程修了。東京都青少年問題協議会副会長を10年歴任。2009年に東京都功労者表彰、2016年に瑞宝中綬章を受章。現在は早稲田大学名誉教授をはじめ、ハーバード大学ライシャワー研究所客員研究員、日本精神衛生学会顧問、早稲田大学エクステンションセンター講師などを務める。近著、『生きることに疲れたあなたが一番にしなければならないこと:加藤諦三の新・人間関係論』(早稲田新書)が好評発売中。
孤独を受け入れれば、することが見えてくる
アメリカの偉大な精神医学者、デヴィッド・シーベリーは、「不幸を受け入れると、することが見えてくる」と言っています。
この「不幸」という言葉の代わりに「孤独」を入れれば、孤独の中でどう生きるかが見えてくるでしょう。
不幸を受け入れることは、古い心構えを変えるということです。孤独を受け入れることもまた、古い心構えを変えることにつながります。
そして、孤独を受け入れることで、自然とすることが見えてくるのです。
ここで言う「することが見えてくる」とは、日常生活で「明日はこれをしよう」という思いが出てくることを指します。
例えば、部屋の隅を片付ける。いつも朝7時に起きているのならば、6時に起きてみる。それを1年間続けてみる。それが日々重なることで、生活にリズムが出てきます。
一方で、この不幸や孤独を受け入れないと、エネルギーの使い方を間違えます。
例えば、うつ病にかかってしまった人。こうした人は、不幸を受け入れられません。なぜなら、彼らは成長を拒否することにエネルギーを消耗してしまったからです。
そこで、シーベリーの言う「不幸を受け入れる」ことで、ポテンシャル(可能性としての力)は上がります。つまり、自分の潜在的能力を発揮できるようになるのです。
「不幸を受け入れる」ことと、〝適切な目的を持つ〟ということは、言うまでもなく、深く関係しています。
非現実的なほど高い期待を自分にかけることは、適切な目的を持てないということ。それはすなわち、自分に欠けていることを、受け入れられないということです。
同じ内容を、別の言葉で表現している人は多くいます。
例を挙げると、古代ギリシアの哲学者・エピクロス。彼は、「全ての悩みがなくなるような力を求めてはいけません」と言っています。
不幸を受け入れるからこそ、人への感謝の気持ちが出てくるもの。逆に言えば、不幸や孤独を受け入れないと、感謝の気持ちは生まれてきません。
孤独を大げさに苦しむ人もまた、不幸を受け入れることができない人です。
「孤独を受け入れる」とは、不安を積極的に解決する方法の一つです。孤独を受け入れることは、自分の心の意識領域を広げることにも結びつきます。
高齢者になったら、外での活動を広げるよりも、内面の意識を広げることを重要視するとよいでしょう。

老いとともに自分の内面を重視していくことが自己満足にもつながる。
不幸や孤独は、大げさに苦しまないこと。
きちんと受け止めれば、不安が解消し、することが見えてくる。
孤独な人は他人の人生を巻き込む
不幸な人は、他人を巻き込むことで、自分の無意味感を解消しようとしています。自分の人生を活性化するために、最も安易な方法は、「相手を巻き込む」ことだからです。
不幸な人は、自分が生き延びるためなら何でもします。それでいながら、理性があるので「あなたのため」と言うのです。
一方、孤独な人は、生きている意味を獲得しかねています。
孤独な人は、もともと無意味感で苦しんでいます。だから、人との関係の中に、意味を感じようとするのです。そのため、嫌いな相手だとしても、なかなか離れられません。
そして、人は一般に、自分の心の葛藤を解決するために、人を巻き込む生き物です。
そのときに一番巻き込みやすいのが、弱者。つまり、親にとっての子どもです。
親は、自分の心の葛藤を解決するために、子どもを巻き込みます。親が心理的に問題を抱えているほど、心の葛藤が深刻であるほど、より強く子どもを巻き込むのです。
それはなぜかと言うと、子ども以外の誰にも、自分が手を出せないから。そこまで、親が精神的に弱いということです。
つまり、子どもを巻き込む親は、全く自立できておらず、心理的に幼児と言えます。
「あなたさえ幸せになってくれればよいの」と言って、子どもを巻き込む人がいます。これは、親の愛の仮面を被ったサディズムです。
自分の子どもをはじめ、他人を巻き込む形で、心の葛藤を解決する人は、人生に幅が出ません。これが、自己実現している人と、人を巻き込むことで絶望から逃れようとする人との違いです。
自己実現している人は、他人を巻き込まず、自分の潜在的能力を使って生きています。このような態度のことを、〝生産的心構え〟と言います。
例えば、多くの人に囲まれて、幸せでいいはずの人が、苦虫をかみ殺したような不機嫌な顔をしているとします。
周囲の人から見れば、「この人は一体何が不満なのだろう」と不思議に思いますが、本人は、自分の要求が満たされていないので、不機嫌なのです。
その人は、何か困ったことが起きれば、それはもともと自分の人生には起きてはならないことだと考えます。
したがって、自分の機嫌を損ねる物事は、誰かが解決すべき問題であって、誰も解決しようと努力しないのであれば、その人にとって、それはけしからんことなのです。
ドイツの精神科医・フーベルトゥス・テレンバッハの言葉を引用するならば、老化に失敗すると「孤独、諦め、不信、強情、鈍麻のうちに、旧きものにしがみついて離れようとしない執着のうちに、頑固さのうちに停滞してしまう」のです(※Hubertus Tellenbach、 MELANCHOLIE、Springer-Verlag,1961 メランコリー、木村敏訳、みすず書房、1978、P.73)。
他人を巻き込んで、心の葛藤や不幸を解消しようとしないこと。
自分の潜在的能力を使って生きれば、人生にも幅が出る。
また、他人を巻き込もうとする人が近くにいたら、距離を置く。
形だけの「外」ではなく「内」面を重要視する
孤独を受け入れるためには、人生の基準を変えることも必要です。
具体的には、他人の目を気にし過ぎる人(神経症的非利己主義)から、正常に自分のことを考えられる人(健康的利己主義、健康的自分本位)に変わるということです。
逆境に強い「レジリエント・パーソナリティー」という、個人の性格があります。彼らは、世間の目などの「外」にしがみつかないで、自分の「内」なるものにしがみつきました。
高齢になったら、内なる力にしがみつけるよう、人生の軸を変えることが必要になってきます。これが「老いるとき」の基準変更です。
過去のことを「ああすればよかった、こうすればよかった」と嘆いているうちに、時は過ぎていくもの。見返そうと思っているうちに、人生が終わってしまいます。
ケチだと、過去に囚われます。なぜなら、失ったものを取り返そうとするからです。
高齢期を充実して生きられていない人は、その年齢になっても、外への拡張の時期から、内面の充実に方向転換ができなかった人です。このような人は、ある年齢に達しているのに、外への拡張の発想から、未だに抜け出せないでいます。
若い頃は、「あれができる、これができる」という発想でもいいかもしれません。こんなに速く走れる、こんなに大きな事業を成し遂げた、こんなに多くの外国語を話せる、こんなに多くの人を知っている、こんなにお金を儲けた──。
これが、外への拡張期の発想。要するに、「形」を問題にした発想、ということです。
この「外」から「内」への転換ができないと、年老いてから不満を感じます。いつになっても、若い頃の心理的課題を解決できないままで、生きているということです。
そうした発想で高齢期を迎えれば、悩みはもっと次々と出てきます。そうして、定年退職にでもなれば、落ち込む人も出てくるし、中にはうつ病になる人が出てきても、おかしくはないでしょう。
高齢期になったら、世間などの「外」ではなく、自分の「内」を重視する。
若い頃のように、いつまでも外ばかり見ていると、悩みが次々に増え、落ち込むことも増える。
真の寂しさの解消には愛することが必要
最後に、孤独を受け入れるために必要な、もう一つのことをお教えします。それは、人を愛する心の姿勢です。
人は、愛されるのではなく、愛することで孤独ではなくなります。多くの人は、愛されることで寂しさをなくそうとしていますが、それは無理なのです。
寂しさを乗り越えようとするには、愛することが必要です。
受け身である限り、人の不満はなくなりません。「こうしてほしいのに、こうしてくれない」という不満が出てきます。
そうした受け身ではなく、能動的な構えになることで、不満は激減します。そして反対に、満足感が激増するのです。
他人に愛されることを望むのではなく、人を愛すように生きる。
寂しさを乗り越えるには、自分から動いて人を愛することが必要。

この記事は『安心』2021年4月号に掲載されています。
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