解説者のプロフィール

茂木健一郎(もぎ・けんいちろう)
脳科学者。1962年東京都生まれ。東京大学理学部、法学部を卒業後、同大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了。理学博士。理化学研究所、ケンブリッジ大学を経てソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー。2005年『脳と仮想』(新潮社)で第4回小林秀雄賞受賞。『結果を出せる人になる!「すぐやる脳」のつくり方』(学研プラス)、『もうイライラしない!怒らない脳』(徳間書店)など著書多数。
「怒りの暴走」を前頭前野がコントロール
「茂木はすぐに怒る」。
若い頃の私は、よくそう言われていました。しかし、年を重ねるにつれ徐々に変わって、気がついたら「あまり怒らない人」になっていました。
仏のように悟りを開いたわけではないので、全く怒らないわけではありませんが、かつてなら怒りが沸騰していたような場面でも、今は受け流せるようになりました。
ただ「年を重ねれば怒らなくなる」というわけでもありません。「キレる老人」が話題になることがありますが、皆さんの周囲にも、昔よりも怒りっぽくなったと感じるお年寄りは少なくないでしょう。
年を重ねて穏やかになっていく人、年とともに激しく怒るようになる人、二極化していくこの分かれ目は何でしょうか。
そのカギとなるのが、脳の「前頭前野」の働きです。
前頭前野は、名前の通り、頭の前方にある大脳の領域で、思考や意志決定をつかさどる脳の司令塔。いわば生物としての「ヒト」を、理性や知性を持つ「人」たらしめているのが、前頭前野なのです。
怒りが生まれる大本の場所は、脳の深部にある「扁桃体」です。扁桃体は感情の中枢で、記憶の中枢である「海馬」と密接に連携しながら、ある出来事に対して、「快」か「不快」かをジャッジします。
「不快」の中には、不安、不満、不調、恐怖などが含まれます。自分の生存を脅かす「危険」への警報を鳴り響かせ、抵抗するための闘争本能が「怒り」の感情なのです。

脳の深くにある扁桃体が出す「危機警報」が怒りの正体。
そのため、怒りを覚えると、体は非常事態宣言を出し、心拍数や血圧、血糖値を上げて、体の持つ最大の能力を引き出す準備を始めます。
ただし、これはいわば火事場のバカ力。ストレス状態で体と神経に負担がかかり、生活習慣病につながったり、脳や心臓(血管)を痛めるリスクを伴います。
そこで、扁桃体が出した警報が、本当に危険な状態かを示しているかを見極め、コントロールをしているのが「前頭前野」です。
例えば、火災報知器が鳴ったとしても、それが部屋で焼き肉をしていて、思ったよりも煙が出てしまったという状況であれば、どうしますか?
通常は、火事ではないと判断し、警報を止めて換気するなどして、穏便に対処するはずです。これが、前頭前野が扁桃体をしっかりコントロールしている状態です。
しかし、前頭前野のコントロール力が弱いと、怒りに脳が乗っ取られて暴走し、暴力や罵詈雑言など、過剰な反応をしてしまいます。報知器が鳴るたびに、すぐに部屋中に消火器をぶちまけるようなもので、これでは後の始末が大変ですよね。
つまり、扁桃体が発した「怒り」の警報を、前頭前野が重要性を判断して、適切な対処法を決定する。重要なのは、このプロセスがきちんと行われることであって、ただ「怒らない」ようにすればよいというわけではありません。
ただ、そもそも現代社会で「生命の危機」への警報としての怒りが必要とされる場面は、ほとんどなくなってきました。その分、自尊心や自己満足を守るための怒りが増えたように感じます。

警報の重要性を判断し適切に対処しないと、後の始末が大変。
怒りは社会的にも肉体的にもリスクがある感情だからこそ、うまくコントロールすることが重要です。
実は前頭前野は、さまざまな人生経験を積めば積むほど、巧みなコントロール力を発揮するようになります。
その人がどんな人生を送ってきたかが現れる「脳の履歴書」のような器官ともいえ、機能が成熟するのは25~30歳ぐらいとされています。幼い子どもが、怒りを抑えられずにすぐ表出させてしまうのも、前頭前野が未熟だからです。
一方で、前頭前野は、脳の衰えの影響が現れやすいところでもあります。新しいものや多様な価値観を受け入れにくくなり、昔より怒りっぽくなってきたと感じたら、脳の老化や認知症の始まりを疑って、認知症検査込みの脳ドックなどを受けてみるのも一つの手です。
自分を客観視できないと「イタい人」「ウザい人」に
その意味では、怒りがどのくらい制御できるかは、「脳の健康のバロメーター」でもあります。このことを逆手に取ると、「怒りをコントロールして穏やかに暮らす練習」は、認知症やMCI(軽度認知障害)を防ぐ一種の「脳トレ」にもなると言えます。
先ほど、前頭前野を育てるのは人生経験だと言いましたが、大げさに考える必要はありません。日常のちょっとした心掛けの積み重ねで十分に有効です。
お勧めは、自分の思考や判断、行動が、他人からどう見えているかを意識すること。最初のうちは「お~、俺は今、怒ってるな」と、怒っていることを意識するだけでも構いません。
自分自身を、俯瞰的・客観的に分析することを「メタ認知」といいます。このメタ認知は、前頭前野の持つ重要な働きの一つで、これができない人は「イタい人」「ウザい人」に陥りやすいのです。
次に、例えば、困難な状況に陥ったら、「困った。腹立たしい状況」→「自分が成長できるよい機会」というように、出来事の見方を変えてみましょう。
これは、怒りやストレスをコントロールする方法として、最近、脳科学で非常に注目されている「再評価(リアプレイザル)」という方法です。
ちょっと難しいのですが、「どんな見方ができるか」と、思考の可能性を考えてみるだけでも有効です。
それから、ウィズコロナの時代には難しい面もありますが、可能な限り、対面して人とのコミュニケーションを取りましょう。表情や声音など多彩な「非言語的コミュニケーション」を読み取ることが、脳へのよい「栄養」になるからです。
一方で「自分の世界を持つ」ことも大事です。
私たちの脳には相手の感情や行動に共感して、自分自身の心や体も同じように動かしてしまう「ミラーシステム」というしくみがあります。つまり怒っている人たちの中にいると、自分まで怒りを覚えてくるということ。同調圧力の強い日本のような社会では、なおさらです。
なにか改善やイノベーション(革新)につながる行動を伴うような「覚悟を持った怒り」であれば意味はあるでしょうが、残念ながら「自分が怒っても、他人は変えられない」のです。
ましてや、テレビのワイドショーに流れる芸能人の不倫スキャンダルだの、SNS上の誰かの言動だのに腹を立てて、自分の貴重な時間や手間、さらには自分の健康をかけることに、なんの意味があるでしょうか。
私は最近、ネットオークションで落札した「江戸時代の金貨」と、新しく手に入れた「チョウの研究本」に夢中です。
「自分の好きなこと」を突き詰めて生きるほうが、ずっと人生は有意義ですよ。
■イラスト/高橋陽子

この記事は『安心』2021年1月号に掲載されています。
www.makino-g.jp