プロフィール

若ノ城(わかのじょう)
沖縄県那覇市出身の元大相撲力士。最高位は前頭。本名は阿嘉宗彦。身長191cm、体重150kg以上の恵まれた体躯で、柔道で活躍。オリンピック候補としても名が挙がる。18歳で2型糖尿病を発症し、柔道家から角界入り。現在は、デイサービス花咲にて介護職に従事している。
期待の新星を襲った病魔
私が糖尿病と診断されたのは18歳、高校生のときでした。
柔道をやっており、体を大きくしたいと1日5食、特にお米を大量に食べていました。寮の食堂で、ご飯はいくらでもおかわりできたからです。そのかいもあって、2年生からエースと呼ばれ、全国高校選手権で優勝も果たしました。
異変を感じたのは、高校3年の11月頃のことです。
部活動も引退間近となって実家に戻り、運動も以前のようにしなくなりました。すると、体調に変化が現れたのです。やたらとのどが渇き、夜中に何度もトイレに起きるようになりました。
異常に気づいた母に促され、病院で検査を受けると、血糖値が450mg/dlもあり、即入院となりました(正常値は110mg/dl未満)。
そして、大学でも柔道をがんばろうと思っていたのですが、進学を断念することに……。そんな私を角界にスカウトしてくれたのが、間垣勝晴親方(2代目・若乃花)でした。
入門後、食事は管理栄養士の指導に従い、一心に稽古に打ち込みました。1992年の1月場所で初土俵、95年9月場所に十両に昇進。その頃は体調はとてもよく、新十両の場所ではいきなり優勝を果たします。
外食ざんまいと酒量の増加で糖尿病が悪化

現役時代は恵まれた体格で活躍
そこまではトントン拍子でしたが、この後、糖尿病のコントロールが難しくなっていきます。
若い私は油断し、お酒を飲むようになったのです。
特に、幕内に昇進後は付き合いも増え、タニマチ(後援者)に連れられて外食ざんまい。酒量も増えました。幕内上位まで番付を上げた矢先に、糖尿病を悪化させてしまいます。
症状が一番悪化したときは足裏の感覚がなくなり、土俵に立っても厚手の靴下をはいているかのよう。
踏んばれないので、ちょっと押されると、ズルズル下がってしまうありさまです。土俵際では、何度も歯がゆい思いをしました。
結局、幕内在位は2年で終わり、十両、さらに幕下へと陥落。ケガも重なり、2004年に引退しました。
引退後は後進の指導にあたりましたが、やがて目にも症状が出ます。何もないのに、糸くずのようなものが飛んで見えるのです。糖尿病網膜症とのことで、レーザー治療を受けました。
2007年に日本相撲協会を退職。会社勤めを始めますが、慣れないデスクワークと運動不足のせいか、腎臓病(糖尿病性腎症)が進行します。
血清クレアチニン値が8.0mg/dlまで悪化(基準値は男性1.2mg/dl以下)。もう人工透析しかないというところで、医師から腎臓移植のことを聞きました。
食生活と運動を意識して病気と付き合う
家族に相談すると、当時64歳だった母が腎臓の提供を申し出てくれました。実は姉も提供してもいいと言ってくれ、医師も年齢が若い姉のほうがいいと判断していました。
ですが、母が「いや、私で!」と強く訴えたのです。いくつになってもやはり、子どもの心配を第一にしてくれたのでしょう……。

腎移植直後の様子
こうして2008年4月、腎移植手術を受けました。おかげで体のかゆみや貧血、足のむくみ、寒気といった腎臓病の症状は一気に消失しました。
その後は食生活や運動も意識して、糖尿病と付き合っています。食事は夕食時に炭水化物を食べないようにしていますが、それだけで血糖値のコントロールは全然違います。
現在もインスリン(血糖値を下げる薬)注射は欠かせませんが、現役時代と比べると投薬量は5分の1ほど。現役時は巨体な分、インスリンも大量に必要だった事情もありますが。
糖尿病は、私のように自覚症状が出てきた頃にはかなり重くなっています。健康診断で糖尿病を指摘されたら、どうか逃げずに病院へ行ってください。
また、自分の血糖値が1日の中でいつ上がりやすい、どんな状況で上がりやすいといったことを把握するのが大事です。
それを知ることで、「甘いものを食べるなら、血糖値の上がりにくいタイミングで」といった工夫もできます。全てお医者さん任せにせず、自分で管理する意識を持ちたいものです。

この記事は『安心』2020年11月号に掲載されています。
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